1985年8月12日、日本航空123便墜落事故——今を生きるということ

あの日、空に起きた悲劇
おはようございます。覚えてますか?あの日の出来事を。
私は当時小学生だったのですけど、衝撃的な映像がTVから飛び込んできたのを覚えています。あれから40年、決して忘れちゃいけない出来事ですね。
1985年8月12日午後6時12分。
東京・羽田空港を離陸した日本航空123便は、501人の乗客と15人の乗員を乗せ、大阪・伊丹空港へ向かっていました。
お盆の帰省ラッシュと夕方の混雑が重なり、機内には家族連れ、出張帰りの会社員、そして著名人の姿もあったのですよね。
しかし、離陸からわずか12分後——。
相模湾上空で突如操縦不能に。原因は、過去の修理不良と設計上の欠陥。垂直尾翼が破損し、油圧系統がすべて失われたとされました。
壮絶な40分間と御巣鷹の尾根
操縦士たちは最後の瞬間まで必死に機体を立て直そうと試みましたが、午後6時56分、群馬県・御巣鷹の尾根に激突。
520名が命を落とし、生き残ったのはわずか4人。その中には中学生の少女もいました。彼女は山中で一夜を過ごし、夜明けとともに救助隊に発見されます。冷たい夜気と事故の衝撃音の記憶が、その後も彼女を離さなかったといいます。
その後、看護師となって、阪神淡路大震災の時には医療側に立って患者さんを支えたそうですね。

日本中を包んだ衝撃と悲しみ
事故の報は瞬く間に全国へ。テレビやラジオは緊急特番に切り替わり、空港には家族の安否を求める人々が押し寄せました。
現場近くの村では、自衛隊、消防団、地元住民が総出で救助・遺体収容にあたりました。
この事故は世界の航空史においても最悪の単独機事故として記録され、日本社会に深い傷跡を残しました。
遺族は「8・12連絡会」を結成し、真相究明と安全啓発に尽力。「茜雲忌」と名付けた慰霊の日には、毎年御巣鷹の尾根で鎮魂の祈りが捧げられています。

「当たり前」が一瞬で失われる現実
私たちは今、普通に朝を迎え、仕事や学校に行き、夕飯を囲み、家族や友人と笑い合えます。
しかし、その“当たり前”は、ある日突然、奪われることがある——123便の事故は、それを強烈に思い出させます。
生きていること自体が、偶然の積み重ねであり、奇跡の連続。
だからこそ、一日一日を丁寧に、感謝と誠意をもって過ごしたい。
あの日の空を染めた茜色は、今を生きる私たちへの問いかけなのかもしれません
まとめ
日本航空123便の悲劇は、時間が経っても色あせない教訓を私たちに残しています。
安全の大切さと、日常の尊さ——。
今日という日が、かけがえのない一日であることを、忘れずに生きていきたいですね。
今、生きている奇跡。
あの事故に比べれば、大体のことは大したことないんだよ。
※書籍『クライマーズ・ハイ』の中で、当時の新聞記者の動向が生々しく書かれています。
とは言え、今日も明るく元気に精一杯、『いい加減』に自分のペースで歩みましょう👍
他の誰でもない、自分の未来の為に✨